第2回「親からもらった、とっておきの言葉コンテスト」

たくさんのご応募ありがとうございました。

今年も「親からもらった、とっておきの言葉コンテスト」に全国から320通ものご応募をいただきました。

たくさんのご応募ありがとうございました。

お寄せいただいた作品全てをご紹介したいのですが、僭越ながら選考委員で、泣いたり笑ったりしながら6点を選ばせていただきました。合わせて、それ以外のご応募作品の一部もご紹介させていただきます。

お寄せいただいた言葉の数々はエピソードを読むと、その時の親世代の思いが伝わってくるようです。どうぞご覧ください。

来年は、あなたの「とっておきの言葉とエピソード」をお待ちしております。

※ご紹介させていただいている作品の、無断転載はご遠慮下さい。

応募について

募集作品

「親からもらった、とっておきの言葉」(形式自由でご応募ください)

※親からもらった言葉とその言葉にまつわる想いやエピソードを200文字以内にまとめてください。

応募締切
受付は終了しました
応募資格
不問

入賞作品発表・選考について

作品および入賞発表 2014年11月~ 当WEBサイトにて
※オヤノコト.マガジン冬号(12月発行)でも掲載いたします。
選考方法 「親からもらった、とっておきの言葉」選考委員会にて選考を実施。大賞、準大賞、佳作として表彰いたします。
賞品 旅行券3万円分他
入賞された方へは、メールまたは電話にてご連絡の上、賞品をお送りいたします。
応募条件
  • 他のコンテストに応募していない未発表作品とします。
  • 万一、応募作品に対し第3者間に紛争等が生じても当主催者側は一切の責任は負わないものとします。
  • 応募点数に制限はありません。おひとりで何点でも応募できます。
作品の取扱いについて
  • ご応募いただいた作品の著作権は著作者に帰属しますが、当主催者にはその使用権が許諾されます。
  • 当主催者は応募作品の作品集、もしくは書籍化、宣伝広告、ホームページなどに無償で使用することがあります。
  • 当コンテストに応募された作品を、他のコンテストへ応募したり、雑誌や他の企業・団体が運営するホームページ等への転載はご遠慮ください。
作品制限
  • 応募作品が以下の内容に該当すると当主催者が判断した場合、当主催者は事前の通知等なく展示をせず削除することがあります。
    • 公序良俗に反している、またはそのおそれがあるもの。
    • 第三者の著作権その他の権利を侵害または、侵害するおそれのあるもの。
    • 第三者を誹謗中傷しているもの、またそうとらえることができるもの。
    • 第三者のプライバシーの侵害、または侵害のおそれのあるもの。
    • 法令等に違反、またはそのおそれのあるもの。
    • 当コンテストの適切な運用の妨げ、またはそのおそれのあるもの。
    • 応募作品は応募者または第三者の個人情報が含まれていないものに限ります。
個人情報の取扱い
について
作品応募の際の個人情報は当コンテスト運用及び、「オヤノコト.マガジン」の発送等、弊社からのお知らせに関してのみ使用しその他の目的に使用したり、第三者に開示、提供はいたしません。
その他
  • コンテストに対し、作品応募者は運用方法に従い、一切の異義申し立てをしないものとします。
  • 作品応募時のデータ送信中の事故、データ破損について当主催者は一切の責任を負いません。
  • 当コンテストの応募に起因して生じる損害を等主催者は一切の責任を負いません。
  • 選考状況、選考基準などについては一切お答えできません。
主催者 「親からもらった、とっておきの言葉」選考委員会 事務局(株式会社オヤノコトネット内)

e-mail:info@oyanokoto-net.co.jp

2013年の受賞作品はコチラ

入賞作品

オヤノコト大賞
京都府・西田栄美子さん(48歳)
手のしわは今まで頑張って生きてきた証、目尻のしわはあなたが生まれてからよ。ははは

冬の水仕事、畑仕事などで母の手は年齢よりはるかにしわくちゃで、ちょっと残念で可哀想な手だけど、母の笑いじわは子供が誕生してから年々増えて深くなってしまったわ、と微笑む姿を憶えています。
そして今、私も子供、孫を持つ身となり、母と同じ思いで過ごしています。

いさぎよいで賞
滋賀県・小谷正光さん(50歳)
ほな、帰ろ

中学3年生の三者面談で、担任から「おたくの息子はアホ過ぎてどこの高校もムリ。」と言われたお袋は、「へー。でもウチのは志望校受験させます。ほな、帰ろ」とホントに5分で席を立ち、一同唖然。奮起した俺は、上位進学校に奇跡の合格を果たしました。お袋がホンマに信じてたのか?は今も謎です。

感動したで賞
宮城県・遠藤あおいさん(22歳)
俺は男なのに、あと三回もバージンロードを歩けるのか

私は四人姉妹の末っ子に産まれました。姉三人は社会人で、みんなそれぞれ違う県で働いています。私が大学生のとき、就活中に「地元を離れたいけど、この家を継ぐ人がいなくて家がなくなるのは嫌だな」と父に話すと、「出ていってくれ。そしてママとパパでこの家の財産使い切る。早く二人で楽しい隠居生活するんだ。」と言われました。それを聞き、やりたいことがある場所に就職しようと決意できましたが、「出ていけ」という言葉に少しショックを受けました。
無事に就職も決まり、地元を離れることが確定していたある日、父が三年前に結婚した、長女の結婚式の映像を見て一人で号泣していました。父は、「俺は男なのに、あと三回もバージンロードを歩けるのか」と泣きながら嬉しそうに母に話していていました。その言葉を聞いたとき、「父は子供達を愛していてくれて、幸せになるのを本当に願っているんだな。」と実感して、泣いてしまいました。父は「地元を出ていけ」と言ったけれど、それは、家のことを気にせず、やりたいことをやって、私に幸せになってほしいからだと改めて分かりました。
就職したら、両親2人だけで旅行に招待してあげたいです。いつまでも、仲の良い子供思いの両親の夫婦関係は、本当に私の理想です。

ジーンときたで賞
沖縄県・兼城もも子さん(40歳)
「親の心子知らず」「子の心親知らず」だね

若かりし頃の反抗期は、親に反発し毎日毎日遊びに明け暮れてました。母はいつ帰ってくるかもわからない私を毎日寝ずに待っていました。次の日が仕事にも関わらず…
私は自分の事しか考えず、母の気持ちを理解しようとしませんでした。そんな時、母に言われた言葉が「『親の心子知らず 』『子の心親知らず』だね」と…。あなたは母さんの気持ちをわかってくれない!でも母さんもあんたの気持ちをわかってあげれてないね!と言ったのです。その言葉を聞いた時に、母の、自分の気持ちを押し付けるだけじゃなく私の気持ちもわかってあげられずごめんねという想いが伝わってきました。それ以降、私自身も考えを改めるきっかけになりました。
現在母親になり、あの時の母の気持ちがすごくよく理解できる年になりました。母さんありがとう…

よい言葉で賞
T.Mさん(30代)
大胆不敵に生きてください

小学5年生で行った臨海学校。最後の夜、親からの手紙を渡されるというサプライズがあった。
私の手紙には、真面目な父の、几帳面に角ばった文字で「大胆不敵に生きてください」と書かれていた。「明るく健康に」とか「人に優しく」とか書くもんなんじゃないかと、子供ながらに意表をつかれた。
父が願ったせいか否か、自分でも驚くような人生の選択をいくつかしてきたように思う。
手紙は今も引出しに仕舞っている。ふとたまに引出しを開ける。そして手紙を見返す。
そんな時はちょうど何かに迷っていたりして、父の言葉はいつも私の答えをじっと見定めている。

オヤノコト特別賞
東京都・野田幹郎さん(84歳)
日本は戦争に負けたけど、これからも国と家族は守れ

15才で軍の学校から帰った時に、父から言われました。
その後、銀行員になって28才で結婚した時にも言われました。
日本はこれからどうなっていくのでしょうか。誰にも判りませんね。少子高齢・人口減少をしっかり見すえてしっかりとした対策を立て、平和を守り歩んで行きたいです。

編集部によるピックアップ作品

<滋賀県・50代女性>
あなたには充分優しくしてもらい満足している、ありがとう

病気で入院している母を見舞ったときの母の言葉。それが最後の言葉になりました。残された私は、淋しさのなかでどれだけこの先を見つめたあたたかい言葉に勇気をもらえたことか。母はすごいと今も思います。

<新潟県・60代女性>
ケ・セラセラー

明治生まれの母は、娘たちにそれぞれの言葉を残してくれていました。私は4人姉妹の末っ子で甘えん坊で泣き虫でした。そんな私を心配してか、私が悩んだり、迷ったりした時には、「ケ・セラセラーだよ。なるようになるさ」と歌うように励ましてくれました。宝物の言葉です。

<岐阜県・30代女性>
あきらめるのは、自分の可能性を捨てることだよ

就職活動を始めた頃、特に勉強ができるわけでもないし、資格を取る努力をしていなかったにも関わらず、根拠のない自信で一流企業に就職できるだろうと思っていた私は、社会の厳しい荒波にいらいらしていました。そんな時に父に言われた言葉は、努力ややり遂げることの大切さを教えてくれました。

<大阪府・30代男性>
どん底にいるときにそばにいる人がお前の本当に必要な人だ

受験に失敗して浪人になって、友達が少なくなったときにいわれたことば。とても気が楽になった。

<宮城県・20代女性>
人の心の「痛み」がわかる人になりなさい

「自分より人のために」
そんな精神が強かった祖母が亡くなった際、母に言われた言葉です。
真剣な眼差しで、その目から、母の心底の思いが強く伝わってきたのを覚えています。当時中学生だった私は、心の「痛み」についてどういうことなのかよく理解できませんでしたが、大人になった今、とてもその大切さがわかります。
人がつらいとき、苦しいとき、その苦悩を聞いて、自分に置き換えて真剣に考えてみること、自分のことだけでなく周囲の方々のこと、人の心の「痛み」をわかってあげようとすること。それで救われる人間は多いと思うのです。
人の心の「痛み」がわかる人が増えたなら・・・今の社会、もっと共生していけるのではないでしょうか。

<長崎県・40代女性>
人生七転び八起きだ!タダで起きるな何か得て起きろ

亡き父がよく私に言ってました。貧乏な家で7人兄弟の末っ子の私。小中学校時代、貧しいが故に謂れのないイジメにもあいました。父にはイジメられていた事言ったことは一度もありませんが、そんな時は必ず独り言の様に、人生七転び八起きや!タダでおきるな!見返してやれ!貧乏でも心貧乏にはなるなよ!と。魚の行商人だった父は、お金のない人に余った魚を分けてあげていたみたいです。貧しいかったけど辛かったけど、そんな父が大好きでした。自慢出来ます。

<大阪府・20代女性>

小学生の頃、漢字が中々覚えにくく母に教えてもらっていた時、親という漢字は木に立って子供を見守るから親なんだよと教えてもらいました。その言葉で親という漢字を覚えることが出来ましたし、また子供心に見守ってもらっている安心感を覚えました。
現在、私にも子供が出来、親となり、時々この漢字と、あの言葉を思い出します。私も木に立って子供を見守る立場になったのだと思い、自分の子供にもこのように親という漢字を覚えてもらいたいと思います。

<埼玉県・30代女性>
願えば叶う

子供の頃から、何をやっても中途半端に終わらせてしまっていた私。やりたい仕事や、憧れの職業はあったものの、私にはどうせ無理と決めつけて、なんとなく事務仕事に就きなんとなく過ごしてきた日々。私の人生って?生きがいって何?とか…考える事が増えた20代後半…。「何歳になっても夢は持ち続けなさい、本当にやりたいと思う事を、本気で願えば絶対に夢は叶うんだから」と言う母の言葉に背中を押され、30歳という年齢で准看護学校を受験し見事合格!今年卒業し、准看護師として新たな人生を歩みはじめた私です。「願えば叶う」とは、「夢に向かって本気で努力すれば道は開ける」という事なんだなと、今は思います。なんとなくの生活から大脱出した今、母に感謝です。

<広島県・40代男性>
自分の心の中で嘘偽りなく“これ以上ない”と言える所まで考え抜いて答えを出すことが本当の意味での最善を尽くすという事

もう14年も前ですが、就職して5年ほど経ち丁度仕事に夢中になり、また同時に苦しんでいた頃、お盆に実家に帰省して親父と二人で釣りに出かけた先で、仕事の悩みを話した時に、親父に言われた言葉です。
当時、ある会社で重役を務め傾きかけた経営を立て直した父親からの説得力のある言葉でしたし、同時に息子たる私の実力を信じてくれている父親の愛を感じました。以来、この言葉を胸に、大きな課題に直面しても冷静に且つ粘り強く対処することが出来るようになり会社員として成功しております。社会人の先輩として親父に感謝しています。

<長崎県・30代女性>
人の傷みがわかる人になりなさい。

小さい時からずっと母が言ってた言葉。
社会人になり、15年の時が過ぎた。何度となく職場で辛いことが起こり、その度に母の言葉を思いだした。自分が辛い立場になっても仕事だけはしっかりやってきた。そのかいあってか、12年間勤めた会社を寿退社したその日、みんなが涙を流してくれた。
人の立場になって常に考え、役職者として頑張ったことが実を結んだと実感した日だった。

<岡山県:40代男性>
仕事は真剣にやれ、しかし深刻にはなるな

仕事がうまくいかず悩んでいたときのことです。 私は、仕事のことなど親にあまり話をしたことがなかったのですが、その様子からなんとなく察したのか、風呂に入ろうとする父親からぼそっと言われた言葉です。正直聞いた瞬間は特に何とも思わなかったのですが、その後壁にぶち当たるたびに心の底からふわっと浮かんできては自分を取り戻させてくれる不思議な言葉です。

<埼玉県・20代女性>
一寸先は闇という言葉があるがアレは違う。本当は一寸先は光なんよ

どこに不幸が転がってるかわからないと、クヨクヨ生きていた自分に父が言ってくれた言葉です。
それを聞いたときハッとして、それからというもの何か悪いことの前兆のようなものを感じた時にもこれから好転していくかもしれないという希望が持てるようになりました。

<愛知県・50代男性>
日本は、多くの犠牲者の涙があって、今があるからな

受験を控えての夏休み、だらだらと過ごしていた日々が続いた。ふつうだと、親は、見かねて「受験生が何をしてるんだ」と叱責したくなるのが当たり前であろう。しかし、叱責することを敢えて避け、「日本は、多くの犠牲者の涙があって、今があるからなあ」と、ぽつりと話した言葉が身にしみた。そういえば、父親も戦時中に幼少期を過ごし、食べ物をはじめ、衣食住の面で苦労したことを思い起こした。その時から真剣になった。

<東京都・30代女性>
気持ちに不器用な人の人生はもったいない

父がポロっと言った言葉です。頑固だったりプライドが高かったりして傲慢な自分を出してしまい、結果、相手とよそよそしくなってしまう人生はもったいないなと、言った本人、父が亡くなった時にその言葉が凄く当てはまり、とても悲しい気持ちになりました。
父も自分も不器用だったせいで、亡くなるまで変な壁がありよそよそしく、今思えばちゃんと会話もしたことなかったけど、亡くなった今色々と話しておけばよかったと後悔しか残っていません。
好きな気持ちや感謝の気持ちには、素直になろうと努力するようになりました。

<兵庫県・40代男性>
親なんて、子供から「父ちゃん、母ちゃん・・・」と頼られてるうちが華だ

私は男三人兄弟の三番目。八つ違いの長男、五つ違いの次男と私。この言葉を言ったのは、私が二十歳の学生で正月田舎に帰省していた際、両親と私で初詣にいった際、ぽろっと父が何か寂しそうに漏らした。
おそらく、兄二人が独立し巣だっていく姿に、嬉しさと、親から遠くなっていく思いがあったのだろう。
現在私は42歳。父は亡くなり、田舎には母一人で暮らしているが、この父の漏らした言葉もあり、必ず年に一回は家族連れで帰省している。例え、嫁が嫌な顔をしても家族連れで。

<埼玉県・40代女性>
お金がなくとも、勉強する方法はいくらでもある

父親が言い放ったこの言葉を最後に、片道3時間の大学通学への不満をを一切言わなくなった私です。
幼少期に父を亡くし、母親に育てられた父は、家計に負担をかけまいと、勉強しながら給料も貰える企業の教育学校に進学しました。
そんな過去を持つ父から言われた言葉は、私の甘い考えを一撃し、東京での一人暮らしの願望を一切口にしなくなりました。
何でも人に頼るのではなく、自ら切り開く努力の大切さを教えて貰い、感謝しています。

<埼玉県・40代男性>
会う人誰にでも先に挨拶しなさい(挨拶できないと馬鹿だと思われるよ)

私は子供の頃、とても内向的な子でした。そんな私を心配するかのように母親がよくこの言葉をかけてくれました。
この習慣のおかげで大人になって今までの会社で、課長、 マネージャー、専務などに就くことができました。今もって、親の言葉はありがたいとつくづく思います。

<神奈川県・20代女性>
人生は何度転んだとしても流した涙のぶんだたか立ち上がればいい。それが人間の証だから。何があっても人一番素直で優しい心を持った私達の娘に違いないんだから

仕事や人間関係で何度もつまずき挫けそうになり、家族の声が聞きたくて電話をかけたとき、いつも言ってくれる名ゼリフが「何度転んだとしても立ち上がればいい」でした。
その当時、あまり意味が判らなくて聞き流していましたが、今となっては私の心の中での大きな支えの言葉です。
お母さんお父さん私を産んでくれて育ててくれて、ありがとう!
今度は私が恩返しする番だよ!

<鳥取県・50代女性>
親と月夜はいつもよい

20年以上前に59歳で亡くなった父がいつも笑顔で私に言っていた言葉です。父は祖父が若くして結核の予後不良のため、進学を諦め祖父母父母弟妹を養うため、14歳から働き始めました。20歳しか離れていない実の父である祖父からはお酒が入ると罵声を浴びせられ、疎ましい扱いを受けていました。でも、嫌な顔をせず朝の4時から遅くまで休みなく働き続けました。思春期の私が祖父の悪口を言うと父は悲しい顔を度々見せました。父は私を目に入れても痛くないように可愛いがってくれ、この言葉を事あるたびに言いました。困り事があった時もいつも助けてくれて、返しはしなくていいから、受けた分は子供にしてあげなさいと言い続けました。親孝行をする前に逝っちゃいました。私も親になり子供に無償の愛情をそそぐ時、ついこの言葉を口にしていました。きっと父は態度には出していませんでしたが、祖父からの愛を亡くなるまで求めていたのかもしれません。この歳になり、月夜を見ると父の愛情の深さを感じて涙ぐんでしまいます。

<東京都・20代男性>
後悔しない人間なんていないんだから、たくさん悔しい思いをしろ。たくさん後悔した人間は絶対に心が強くなる

高校受験で不合格し、何もかも嫌になっていた私に父から言われた言葉です。この言葉に当時の私はグッときました。今の私の座右の銘にもなっています。親から子へ。私から将来の子供へ。人生で私が一番お世話になったこの言葉を受け継いで教えてあげたいです。

<岐阜県・50代男性>
手のひらから世界を見なさい

私が教師として働き始めた頃、仕事に追われ毎日遅くまで働いていました。当時、両親と食事をしながら教員の仕事の大変さ、多忙さを話していると、父が、「どんなに仕事が忙しかろうと目の前の子どもが一番だ。手のひらから世界を見なさい。」と言われました。あれから何年も経ちますが今も私の座右の銘です。

<福島県・40代男性>
生きているうちに親孝行しろ!

母親が元気な時には自分に対して口癖のように言っていた言葉です。自分も母親が元気な事もあって親孝行は考えていなかった事をよく覚えていますが、その母親も4年前に癌で亡くなり、本当に親孝行ができず心のわだかまりだけが残っているところです。

<新潟県・30代女性>
「オギャー」っと産まれて早20年、早いものです。これからも親孝行で

現在30歳の私が10年前の20歳の誕生日に母から送られてきたメール…。高校を卒業後、東京の短大に進学して初めて親元を離れ一人暮らし。一人暮らしをしてからも手作りの料理を冷凍して送ってくれたり食材を送ってくれたりした母。「これからも親孝行で。」と言われたけれど、これからどころか何一つ親孝行できていなかった当時、そのメールを見た私は、これから立派な社会人になって小さな親孝行でもいいから少しずつ親孝行しよう!と心に誓いました…

<茨城県・20代女性>
平凡が一番!

私が幼い頃から母はいつも「平凡が一番なのよ」とよく言っていました。幼い私は平凡が一番なんて面白くないぢゃん!などと思っていましたが、大人になって初めてその言葉の意味が分かりました。毎日日々を過ごしていても全く同じ毎日なんてありません。それにいつ危険な事が自分に降りかかってくるが誰にも分かりません。いつも平凡だと思える毎日が本当は一番幸せな事なんだと気づかされました。

<鹿児島県・20代女性>
こんなに可愛い孫を見せてくれたんだもん、もうチャラだよ

二人姉妹の長女として生まれた私。小さい頃から親からのたくさんの期待を背負って生きてた。しかし親の期待に応えきれず、学生時代は反抗して迷惑をかけることも多かった。大学も高い学費を払ってもらったのに就職した企業も一年経たずに、できちゃった婚の末、退職。こどもが産まれ、親になり、親の気持ちがやっと理解できた気する。「期待に応えられなくてごめんね」とつぶやいた私に、父は一言、「こんなに可愛い孫を見せてくれたんだもん、もうチャラだよ」。

<沖縄県・40代女性>
子供の姿は自分の昔の姿、お年寄りの姿は自分の未来の姿

子育てに疲れていたときに義母に言われた言葉です。曾祖母(義父の祖母)を98歳まで家で介護しながら、5名の子供と祖父母、義弟妹、あわせて12名の家族を世話していた義母。言葉では語りつくせないほどの苦労をしたはずなのに、いつも人に温かく接してくれる優しい人です。
「かつては自分も未熟だったから、子供の未熟さを見守り育てよう。
いつかは自分も弱くなるから、お年寄りを大事にしよう。」思えば、私もたくさんの人に支えてもらって、この歳まで育ってきました。そしてこれからも、支えてもらうでしょう。まだまだ義母の足元にも及びませんが、思いやりのある人になりたいです。

<神奈川県・20代女性>
元気にやってますか? それが一番嬉しいよ

私はこの春、結婚を機に産まれて初めて親元を離れました。母とは携帯電話で度々話をしていますが、父は厳格で無口な性格、離れてからほとんど話もしていませんでした。初めて遠くから送る父の日のプレゼントが実家に届き、母からの電話があった時「お父さんが代わりたいって!」との母の後、父が恥ずかしそうに言った言葉がこの言葉です。それ以来、父が電話を代わる度、この台詞が父の定番に。父の精一杯の優しさがこの言葉に込められてると受話器の先でいつも微笑ましくなります。これからは、この言葉を私から父に伝えたいと思いました。

<徳島県・40代女性>
世の中に無駄なことなんてない

50歳の時交通事故で首から下の自由を失った母。『体の自由は奪われてしまったけど、新しく得たものも沢山ある。世の中に無駄なことなんてない。』と語った母。
壁に直面したとき、いつもこの言葉をかみしめて踏ん張ることができる力がわいてくる言葉です。

<愛知県・30代男性>
ちゃんと見てるから

若い頃、父親と普段は特に会話も無く、自分に対して無関心だと思っていました。ヤンチャな道に走りだした時、父親とケンカになり「興味無いくせに」と言ったら「ちゃんとお前の事見てるから」と言われて心にズシンと響いたのを覚えています。見られていると思うと、ちゃんとしなきゃという思いがあり、ヤンチャな事はしなくなりました。あれから十数年、今では部下に仕事の相談を受けると「その頑張りを見ている人がちゃんといるから」と、同じことを言っている自分がいます(笑)

<東京都・20代男性>
損して、元とれ

仙台で商売を営む一人暮らしの母。顧客から愛されて、震災の時は近所から多くの援助をもらい助けられた。そんな母が、独立したばかりで顧客がうまく獲得できない私に言った言葉があった。「損して、元とれ」。例え嫌だと思うことがあっても、相手の為に親身に耳を傾け、自分に何が出来るかを考える。時間やお金を無駄にするかもしれない。でも後からきっと自分へ返ってくる。その思いを胸に現在、私も順調にお客さんとの関係を築き、商売を営んでいる。

<青森県・50代男性>
器用じゃなくて良かったな。だからお前は努力という言葉を知ったんだ

頭が良くスポーツも秀でていた兄二人に比べ、僕は全く正反対。悔しくて悔しくて、自分なりに一生懸命頑張っていたのだが、中々結果が出なかった。それでも腐らずに、18歳の時、念願の大学に合格した時に、父が僕に言った言葉。努力を覚えた人間は誰にも負けんと頭を撫ぜてくれた。嬉しくて涙が出たのを憶えている。

<北海道・20代女性>
お互い疲れていて心の眼鏡が曇ってしまっただけ、余裕が出ればまた晴れがくる

父と小さい頃からショッピングや映画に行ったり、お互い食の好みが似ているので食べ歩きをしたりしていました。お互いに仕事が忙しくなったりすると、性格が似ている為、喧嘩をして長引いた時に母が普段は二人とも仲が良いのにいつの間にか互いに心の眼鏡を曇らてしまっただけと余裕が出れば晴れがくるから時を待ちなさいと言われ、凄く心に響きました。

<栃木県・30代男性>
敗者がいるから勝者が生まれる

常に思いやる心を忘れてはいけない。勝っても負けた者を気遣う心が必要。また負けても勝者ができたのは自分が負けたお陰と考えて悔やまない。

<東京都・40代女性>
たくさんの知恵や知識を身につけなさい。頭の中に蓄えたものは誰にも奪う ことのできない財産になり、お前を新しい世界に連れて行ってくれるはずだ

両親とも学がなく経済的に恵まれない家に育ちました。でも、私に勉強の才がいくらかなりともあると思った両親は、自分たちの衣食を削ってでも教育に投資してくれ、東大まで行かせてくれました。先生や友人との出会いにも恵まれ、この言葉通りに世界は広がり、学びのもたらす豊かさを実感しています。わが子だけでなく周囲の学びを求めている子供たちに関わりたいという気持ちは、間違いなくこの言葉の影響だと思っています。

<愛知県・30代女性>
それは相談じゃなくて、決定なんだろう?

人生の岐路に立った時に、全てを準備してから報告しました。政情不安定な国に希望して数年行くと告げた私。泣く母の隣で、しばらく黙り込んだ後に、もらった言葉です。反対は覚悟でした。でも、父は私が思っている以上に、私のことを理解してくれていたのだと、涙がでてきました。

<大分県・30代女性>
人が喜ぶことをしなさい

父が、常日頃言っていた「人が喜ぶことをしなさい」。親になった今、すんなり心に届きます。周りの人のことを考えなさいと言う事。今は、私が子どもに口酸っぱく言っています。「人の嫌がることはしないよ、されて嫌な事はしたら行けないよ。」
私のように、いつか子どもの心に届くのでしょう。本当に何度もこの言葉を伝えています。まだまだ先は長そうです。

<山口県・60代男性>
騙されても、絶対に騙すなよ!

私が高校生か大学生の時に、親父から言われた言葉。私が、何かのことで親友に騙された顛末を、親父に話した時の返答。恐い顔で言った表情までもを、半世紀過ぎた今でも想い出す。刑務官という職業から身に付いた、親父の経験が言わせた言葉だと思っている。

<栃木県・40代男性>
今までありがとう。生まれ変わってもまたこの4人で家族だ!

父が亡くなる数日前に母に残した言葉です。亡くなった後、兄と自分は父のこの言葉を聞きました。今でも心に残っています。感謝をあまり口にしない父でしたが、この言葉を母から聞いて、涙したのを覚えています。そして、父は10年以上日記を書いてたらしく、最後のページにも、この言葉が書かれていました。その日記は私達家族の宝物です。

<千葉県・30代男性>
あとは、上がるだけだな

高校に入り初めての成績発表で最下位になり、流石に叱られるかと思って内心ビクビクしながら帰った時、成績表を見た父がボソッとつぶやきました。この状況を前向きに励ましてくれたその一言に背中を押され、卒業する頃にはトップの成績を取れるように。今でも、何かで「最悪だ」と思ってしまった時、この言葉をつぶやいて前を向こうと努力します。

<東京都・30代女性>
腐ったらあかん。気付かんところで必ずあんたの事を見てくれよる人はおるけん

就職し四国から知人が全くいない茨城に勤務することに。初めての土地になじめず、仕事でも怒られる毎日で何もかも嫌になった時に母から言われた言葉です。電話口の向こうの地元訛りの言葉に涙がとまりませんでした。それから9年。母の言う通り自分では気付かないところで頑張りや努力を見てくれている人はたくさんいました。見守ってくれた人達に感謝しながら今も仕事が続けられるのは、この母のあったかい言葉のおかげです。

<東京都・40代女性>
左手でご飯食べてみようか~

4歳の娘の、あれも出来ないこれも出来ないと泣き叫ぶ姿に、母親の私がウンザリしてた時に母から言われた言葉。実際に食べてみると、考えるように手が動かず、イライラ。落とす方が多いくらい。 ああ、娘は毎日こんな気持ちで、まだ不器用な手を使いながら頑張っているんだな~、としみじみ納得、反省。 以来、だいたいの事は許せるし、待つ事が出来るようになりました。母曰く、自分も最近高齢でそうなって来たから、分かるとの事(笑) 大丈夫、お母さん。孫と娘がいるからね。

<北海道・30代女性>
お前が私の子供でよかった。他の誰でもなく、来世でも、私はまたお前の親でありたいと思っている

母が突然56歳という若さで、急病死する一ヶ月前に言い残した言葉です。当時の私は、学生時代からいじめにあい、社会に出ようとしても就職が決まらず、自分に自信を失って生きていたことで、精神的に荒れていました。病弱な母を置いて、首都圏の大学でもう一度ステップアップを考えていたり、それを言い出せず悩んでいました。劣等生の自分を母は愛していてくれたと、信じていてくれたのだと、亡くなった時にとても強く感じました。その結果、私はグレることもなく、イジけることもなく、母の死後に大学に進学し、人生が変わったと思います。